「鳩はあんなにたくさんいるのに、なぜ赤ちゃんの姿を一度も見ることがないのだろう」というのは、多くの都会人が抱く素朴な疑問です。スズメやカラスの雛が地面で跳ねている姿は時折見かけますが、鳩の赤ちゃんに関しては、その姿どころか、どこに巣があるのかさえ特定するのが難しいものです。この謎を解く鍵は、鳩の祖先が持っていた「断崖絶壁の記憶」にあります。私たちが街で見かける鳩の多くは、もともと「カワラバト」という種が家畜化され、野生に戻ったものです。彼らの先祖は、海岸沿いの切り立った崖や深い洞窟の岩棚を住処にしていました。そのため、鳩は本能的に「高い場所」「背後が壁になっている場所」「人間や天敵が物理的に近づけない場所」を営巣地として選ぶ傾向が極めて強いのです。都会においてこの条件を完璧に満たすのが、マンションのベランダの室外機の裏、非常階段の隅、高速道路の高架下、古いビルの軒下のわずかな隙間などです。これらの場所は地上から遠く離れているだけでなく、影になっていて外からは全く見えません。鳩の赤ちゃんは、ここで孵化してから約三十日間、つまり一人前の大きさに成長するまで、一歩も外に出ることなく過ごします。他の鳥類の赤ちゃんが、まだ未熟なうちに巣から出て歩き回るのと対照的に、鳩の赤ちゃんは「ほぼ大人の姿」になるまで徹底して引きこもるのです。私たちが街でようやく「鳩の赤ちゃん」に出会ったとき、それはすでに羽根が生え揃い、親鳥と見分けがつかないほど立派な体格になった、いわば「若鳥」の姿をしています。よく見ると、嘴の付け根がまだピンク色で柔らかかったり、首のあたりの光沢が少なかったり、目が少しあどけなかったりする個体がいますが、それが巣立ち直後の赤ちゃんです。また、鳩の繁殖能力の高さも、赤ちゃんを隠し通せる理由の一つです。鳩は条件が良ければ年に何度も産卵します。そのため、短期間で集中して赤ちゃんを育て上げ、すぐに次の繁殖サイクルに入ることができます。この効率的な子育てシステムにより、赤ちゃんが不器用な姿で人前に晒される時間を最小限に抑えているのです。さらに、鳩の巣は小枝をパラパラと置いただけのような、およそ「家」とは思えないほど粗末な作りをしています。このため、仮に人間が巣を見かけたとしても、それが現役の赤ちゃんの部屋であるとは気づかずに通り過ぎてしまうことも多いのです。鳩の赤ちゃんを街中で見かけないこと。それは、鳩が都会という人工的な断崖絶壁を完全に克服し、自らの脆弱な時期を隠し抜くという高度な知恵を身につけた結果なのです。人知れず暗い隙間で親のミルクを飲み、静かに翼を鍛え上げ、ある日堂々と大空へデビューする。街の鳩たちがどこか不敵な面構えをしているのは、誰にも頼らず、自分たちの聖域を守り抜いて育ってきたという誇りの表れなのかもしれません。