日本のトイレの歴史は、そこに現れる「便所虫」の主役交代の歴史でもあります。かつて、ほとんどの家庭が汲み取り式便所、いわゆる「ボットン便所」だった時代、便所虫の王座に君臨していたのは間違いなく「カマドウマ」でした。光の届かない暗く湿った便槽の中は、彼らにとって外敵のいない安全な住処であり、排泄物に集まる小虫などを餌に、一大コロニーを形成していました。用を足そうと屈んだ瞬間、足元から巨大なカマドウマが跳び出してくるという恐怖体験は、当時の子供たちにとって共通のトラウマだったと言えるでしょう。しかし、昭和から平成にかけて、日本のトイレは劇的な進化を遂げます。下水道の整備が進み、衛生的で快適な水洗トイレが急速に普及しました。このトイレ革命は、カマドウマたちの楽園を奪い去りました。常に水が流れ、清潔に保たれる水洗トイレでは、彼らは住み着くことができなくなったのです。その結果、家の中でカマドウマに遭遇する機会は激減しました。こうして王座が空席となった「便所虫」の世界に、新たな支配者として台頭してきたのが「チョウバエ」です。水洗トイレはカマドウマを駆逐しましたが、新たな問題を生み出しました。それは、目に見えない排水管の内部に蓄積する「汚泥(ヘドロ)」です。この汚泥は、チョウバエの幼虫が育つための完璧な苗床となりました。そして、清潔になったはずのトイレの壁に、汚泥から羽化したチョウバエが張り付くという、新たな不快な光景が日常となったのです。つまり、トイレの構造が「開放的で汚物が溜まる汲み取り式」から「閉鎖的で汚泥が溜まる水洗式」へと変化したことで、そこに適応できる虫の種類も、カマドウマからチョウバエへと移り変わったのです。トイレが進化し続ける限り、そこに現れる「便所虫」の種類も、また未来には変わっていくのかもしれません。